おがたくろぐ

日本語不自由です。

芸術について。

突然だが、読者の皆様は芸術に興味があるだろうか。私はない。

まだ手の爪を弄っている時間の方が幾分か好きである。

面白くない授業中にやりがちな行為だ。読者の皆様も週に2~3時間は弄られていることだろう。

 

話を戻そう。

芸術に「興味がない」というのは正確ではない。

単純に「わからない」のである。

何故だろうか。今回はその理由をアートを理解できない私の目線で身勝手に語っていきたい。

 

私は芸術に興味ある人間が知的でカッコいいと思ったこともあるし、気取って美術館に行ったこともある。ベクシンスキーの絵が好きだとドヤ顔で言ったこともあれば、ネットで読んだだけの絵の知識をひけらかしたこともある。

 

死にたくなってきた。

 

こんな私だが、ラッセンは好きだ。ジグソーパズルの店でしか目にしたことがないが、ピカソよりは普通に好きだ。

 

ラッセンの絵画たち。

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思うに、ラッセンの絵は「わかりやすい」のではないか。

"幻想的"というワードを絵という形で具現化したかのような、一目見て瞬間的に理解できる美しさがある。

この上なくわかりやすい。

ああ、綺麗だな。と何の抵抗もなく思わせてくれる。

少なくとも私はそう思う。

 

さてここでピカソである。

 

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 いやわからん。 

ピカソの「泣く女」という絵である。

 

これは本当に泣いているのか?何を食べているんだ?顔色悪すぎないか?

 

見た瞬間に浮かんでくるのは、多くの疑問に他ならない。

まさに「わかりにくい」絵画ではないだろうか。

当然、馬鹿にしたい訳ではない。むしろ、この絵画の素晴らしさを理解できない私こそ馬鹿にされるに値する人間なのだろう。だが、本当にわからない。逆に、これを一目見て素晴らしいと思える人間が本当にいるのか?

 

我々は、この絵がピカソの絵であることを知っている。また、ピカソが歴史に名を残すような素晴らしい芸術家であることもまた知っている。

だが、それを知らなければどうだろう。何も知らない状態でこの絵を見て、果たして素晴らしいと思えるだろうか。間違いなく私は無理である。

(ギャルでももう少しマシなまつ毛だ) とか、(ブラックジャック最終形態かな?)とか、そのような感想しか出てこないだろう。

いや、冷静になろう。これは単に私の感想が酷いだけである。そしてブラックジャックに最終形態などない。

 

この絵の解説をしているサイトがあった。その一部を引用したい。

 

スペイン内戦が続く中、ゲルニカとほぼ同時期に描かれたピカソ「泣く女」。激動の時代を取り巻く不安と緊張感が造形と色彩のコントラストに表わされ、第二次世界大戦へと向かっていく重苦しい社会的雰囲気すら感じとられるようだ。もちろんピカソ本人の人生における葛藤や苦悩なども無関係ではないだろう。

 

いやもう背景知識ありきじゃん。完全にメタ的なやつじゃん。

 

ピカソの人生やその時の時代背景を踏まえて解釈しないといけない時点で、絵画としては負けではないかと思えてしまうのは私だけなのだろうか。

 

とはいえ、理解不能だと思う自分がいる一方で、自分には決してこのような絵は描くことができないだろうなとも思う。 たとえ私に圧倒的なテクニックがあったとしても、だ。

技術とかそういう次元を超越しているように感じられる。当然、何の知識もない私がそう感じた。というだけの話だが。

 

それではこちらはどうだろう。

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いや書けるわ。

 

パソコンのお絵かきソフトで書けるわ。

 

ブリンキー・パレルモという画家の作品である。

この絵に約1億6000万円の価値があるそうだ。

パレルモが好きでたまらない方々には本当に申し訳ないが、全く理解ができない。この絵に1億6000万円の価値があるならば、私の絵だって1万円くらいで売れても良いはずだ。

 

こちらもネットで解説などを調べて見たが、残念ながら良いものは見当たらなかった。見つかったのは、「さすがパレルモだ」などと手放しで褒め称えるようなものばかりであった。もはや宗教の域ではないだろうか。

 

理解し難いのは何も絵画だけではない。

 

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いや、飲み会後の大学生。

 

もはや何か変わったモノを作ろうとしているだけなんじゃないかと思えてしまう。

作者には本当に申し訳ないが、信念だとか作品に込めた思いだとか、そういうものを感じ取ることができない。

そして改めて思うが、高度な知識や尖った感性がなければ、素晴らしさやそこに込められたものを理解できないようで、果たして本当に自己表現として成り立っているのかが私には疑問でならない。

特に現代アートと呼ばれるものは、知識を共有している限られた人々が内輪で盛り上がっているようにしか思えない。その上で、芸術に精通している者に、芸術を理解できないことで見下されているような気がするのが腹立たしい。

これは甘えに他ならないのだろうが、やはり直感的に「わかりやすい」ものであって欲しいと思う。

 

 

などと色々身勝手に述べてはみたが、結局のところ私には芸術に関する知識がほとんどない。

きっとこの記事も、アートが好きな方々にとっては不愉快極まりないものであったに違いない。無知な状態で、適当なことを長々と書き連ねてしまったことを謝罪したい。

しかし、アートに関する知識を持たぬ者、少なくとも私にとっては、芸術作品を見て抱く感想は上記のようなものであるということもまた事実である。

 

とはいえ、いつまでもこのような目線で芸術作品を見続けるのは情けない。

しっかりと勉強し、芸術をもっと深く違った見方ができるようになりたいと思う。

そして今よりもいくらかマシな見方ができるようになった時に、この記事を読み返して過去の無知な自分を恥ずかしいと思えるようになりたいものだ。

 

 

 

 

夏の終わりについて。

夜の空気は少し肌寒くなり、蝉の鳴き声もいつしか聞こえなくなった。

 

今年の夏は、知らぬ間に終わりを告げていたようだ。

 

夏はあまりにも身勝手だ。頼んでもないのにやって来て、猛烈な暑さで我々を苦しめる。

そのくせ終わってみたら一瞬で、得体の知れぬ喪失感だけを残し、姿を消してしまう。

たかが季節にすら翻弄されてしまう私は、なんて容易い男なのだろうか。

 

何はともあれ、焼けつく様な暑さは何処かへと行ってしまい、打って変わってとても過ごしやすい季節になった。

しかし、この快適な気候も長くは続かず、今度は厳しい寒さに苦しめられることになるのだろう。

 

秋はどう考えても短すぎる。

そもそも、四季の中で冬と夏の占める割合があまりにも大き過ぎやしないか?

何が春夏秋冬だ。春夏夏夏秋冬冬冬冬 くらいが適切ではないか。ペース配分が小学生の持久走並に下手である。

かくいう私も、月の収入の半分以上を最初の10日で消費してしまうので、あまり馬鹿にできる身分ではない。

もしも私が四季を司ろうものなら、春夏秋冬冬冬冬冬冬冬冬冬 みたいな1年になってしまうだろう。すると、水位は下がりマンモスは湧き踊る。俗に言う氷河期である。冷静になろう。一体私は何の話をしているのだ。

私の悪い癖である。すぐに話が逸れてしまう。まるで台風の進路のようである。小学生の頃の純真な私の心はどれだけ台風に弄ばれた事だろうか。って違う。これも全く関係の無い話だ。

 

さて、話を元に戻したい。

 

春夏秋冬。かれこれ20回ほど経験したはずのこのサイクルに、未だ慣れる兆しはない。

思えば、夏は毎日外で蝉を乱獲し、冬は祖父の家で毎日飽きずに雪だるまを制作していた幼少期の自分の方が季節に適応出来ていたのかもしれない。今となっては、そのようなアクティブな活動はどうぶつの森でしかできっこない。老いを感じる瞬間である。

 

「季節に合わせて日本大陸が南北に移動したらいいのに」と、私はかつて友人に語ったことがある。

鼻で笑われた。せめて口で笑ってくれないかな。

渾身の名案を一蹴された私は、悲しみのあまり大量の涙を流しアフリカの砂漠化問題を解決してしまった。

嘘だ。少し話を盛ってしまった。

 

それはさておき、私は先日最寄り駅で中学の頃の同級生を見かけた。

とは言っても、もう5年程会っておらず、他人の空似である可能性も否めなかったため、声をかけることは出来なかった。これだから私には友達が少ないのだ。自覚はしている。

声をかけられなかったとはいえ、やはり彼の近況は気になるもので、元気にしているのだろうか。などと思いながらTwitterで彼のアカウントを見つけ出した。ブロックされていた。そんな夏の終わり。秋の始まり。

 

知らぬ間に移ろいゆくのは、季節だけではないのかもしれない。

 

 

人生について。

人生について。と題した今回のブログであるが、ただ私の人生について私が考えを綴るようなものではない。

そもそも私の平坦極まりない人生の考察で1つのブログを書き上げるなど、『かいけつゾロリ』の読書感想文で原稿用紙15枚分書き上げるようなものである。何を書けというのだ。

 

ちなみに私の所持金では2冊しか『かいけつゾロリ』を購入出来ない。ひもじい。

 

かいけつゾロリ』というと読者の皆様の中には馬鹿げた絵本という印象しか持たれない者も存在するかと思われる。

しかし、幼少期の私は正に『かいけつゾロリ』を読み漁って成長したのである。『かいけつゾロリ』が無ければ今の私はいなかったと言っては過言である。だが、今の私の性格は少しばかり変わっていたのではないかと考えることもできない。私の人生に1ミリも影響を与えていない。きっと幼稚園時代に私の隣の部屋に住んでいたユタカ君の方が何倍も私の人生に影響を与えているだろう。

ゼロは何倍してもゼロである。

 

おそらく当時の私は、

「『かいけつゾロリ』って何を解決するんだろ〜???」くらいの印象しか持っていなかったことであろう。

『かいけつ』が「解決」ではなく「怪傑」であることに気がついたのは何年後であろうか。

内容は低俗なクセに、タイトルに使用する語彙はやけに高度ではないか。

 

一体何の話をしているのであろうか。

 

少しくらいは人生について記述するつもりでブログを書き始めた当初の私が、時空を超え、前半がとある狐の絵本の話題で終了してしまっているこのブログを読んだならば、きっと驚きのあまりタイトルを何度か確認してしまうだろう。複数回の確認は車の運転においては大事な行動であるが今は運転中ではない。学科試験に落ちた私には運転をする資格もない。

そもそも二度見という行為も、さほど驚きのあまった感じの行動ではない。驚きはありあまらぬ。が、ロマンスは最近ありあまっている。ユニセフに行けばガーナのカカオ農園で労働を強いられている恵まれない子供たちにロマンスのお裾分けをすることも可能であろうか。

職員の右拳が飛んで来そうである。ロマンスとカカオの等価交換など非常に夢のある話だと思うのだが。

 

カカオといえば私はブラックサンダーというお菓子が好きである。私はよくブラックサンダーをコンビニで購入する。お値段たったの32円である。

ブラックサンダーはカカオから連想するには相応しくない、などという意見もあるかもしれない。

が、なんと言っても32円である。いくらひもじい生活を送る私でも毎日のように購入することが出来る。そう、非常に安いのである。そして結構旨い。まさにチョコレート界に降臨した雷神である。

この理路整然を具現化したかの様な私の説明を承けても尚、カカオからの連想を正当化する理由には到底なり得ない、などと呑み込めないことを仰るそのお口には黒いイナズマがお似合いである。食っとけ。

 

冷静に考えて頂きたい。仮に毎日ブラックサンダーをコンビニで購入したとしても、32×365=11,680円ぽっちで…えっ?待て待て待て。9月分の私の給与に相当するではないか。買うのやめよ。

 

つい最近の話である。

私は近所のスーパーマーケットにてブラックサンダーを購入した際に、毎日ブラックサンダーを食している者としての甲斐なき矜持から店員が値段を口にする前に32円を差し出した。店員は得意な顔の私に告げた。「30円のお買い上げになります。」

その時の店員の「その2円は何?」と言わんばかりの顔を私は一生、いや、一週間は忘れないだろう。恥をかいた。2度とそのスーパーマーケットで買い物をしないと心に誓った。2日後そこでグミを買った。

私は、この悲しい記憶と結び付けられたブラックサンダーなど断固好んでいない。購入もしない。見るだけでガーナのカカオ農園で労働を強いられている子供たち想起してしまい、チョコレートさながらの暗い気持ちに陥ってしまうチョコレートは、ただの鬱フードである。

 

一体なんの話をしているのであろうか。

 

人生の話題はどこへ行ってしまったのだろう。今回の議題であるにも関わらず、ブログの殆どが人生に掠ってすらいない。由々しき事態であるようにも思われるが、当初の予定と相異なる話題に終始し、一貫性すらもないこの状態もまた、私の人生を体現していると考えることもできるのではないか。

 

私はそう思う。

生態系の保全について。

ポケモンGO という単語を耳にしたことがない人間はこの国にはもはや殆ど存在していない様に思われる。

そのような人間はカビゴンくらいには希少な存在なのではないだろうか、とすら思う。

技術革新に伴う電脳の波に呑まれぬ人類最後の希望であるとも考えられるだろうか。否、ただ時代に取り残されているだけである。

適者生存の自然界においては完全に劣等種と見なされるだろう。この世界を自然界と表現することが出来るかは少し疑問ではあるが。

 

とは言え、突然出現した1つのスマートフォンゲームに、もはや特定の枠に当てはめる事も出来ない程に多様な人間が熱中しているこの現状に混乱する人間も少なくないのではないか。

今や周りを見回すと、小学生くらいの子供ですらスマートフォンポケモンを捕まえている。いや、お前らはセミを捕れよ。と思う。

 

例えばの話であるが、小学生くらいの子供たちが蝉を捕らえることを放棄してしまったとしたら、セミの個体数は果たしてどれほど増加するのだろうか。少し疑問に思う。

 

ここで、私の記憶と実体験に基づいた数字ではあるが、私は少なくとも毎日のように5~10匹は捕まえていたので、

小学2年生~小学生4年生(約320万人)の半数である160万人がこのペース(1日7匹とする)で、夏休み(約40日)の半分の20日をセミ取りに費やしたと仮定すると、夏休みの間に小学生によって、160万×7×40=448,000,000(4億4800万)匹の蝉の命が奪われていることになる。天敵か。

 

以上より、ポケモンGO、いや、それに限らないかもしれないが、スマートフォンの普及の影響によって子供たちの半数が夏季の遊びをセミ捕りからスマートフォンゲームへと乗り換えることによって全国の蝉の個体数は2億匹以上増加すると考えられる。

乗り換えといえば、最近朝の乗り換えの調子がとても良く、私は嬉しい。

センター英語第3問であれば即削除されてしまうような余計な文が入ってしまったが、この蝉の増加は大問題である。2億匹の蝉の鳴き声による日本国民の体感温度の上昇は計り知れないであろう。日本のGDPにも甚大な影響を齎しかねない。全国のママ達は何をしているのだ。日本経済のためにも子供の手からその直方体の物体を早急に引き剥がさねばならぬ。戦争に反対している場合ではない。

 

それだけではない。ポケモンGOの普及によるポケモン会の生態系に対する影響も凄まじいものがある。

そういえば先日、我が母が「凄まじい」を「すごまじい」と読んでいて驚いたが、そんなことは読者の皆様にとっては、私の国際関係論の中間テストの点数くらいどうでもいいだろう。20点である。

先日Twitterにおいても述べさせて頂いたが、今やポケモンGOのプレイヤーは7500万人である。これらのプレイヤーが1日に平均10匹のポッポを捕まえていると仮定すると、1日になんと7億5000万匹ものポッポが無慈悲なプレイヤーによって自由を奪われているのだ。動物愛護団体は何をしているのだ。働け。

 

アメリカでポケモンGOが公開されたのが7/7であり、リリース日から現在にかけての平均ユーザー数を4000万人程度と仮定すると、1日に4億匹×21日=84億匹ものポッポが合計で捕まえられていることになる。世界人口ではないか。

 

それ以上に深刻な状況にあると予想されるのは博士の研究所である。ポケモンGOにおいては、捕まえたポケモンの中で手元に必要ないポケモンを博士に送り付けることが出来る。

確かに、数匹であれば博士の研究の効率も上がり有用なデータを得られるかもしれない。

しかし、希少価値の低いポッポは捕らえられた個体の大半が博士に送り付けられる。このことを考慮すると、博士の研究所には、今や世界人口に匹敵する程大量のポッポが存在していると考えられるのだ。それも1日に7億匹である。1日は86400秒であることを考えると、毎秒8000匹が博士の研究所に送られている計算になる。楽天カードマンどころの話ではない。エサ代・土地代も洒落にならないだろう。私の思考ももはや停止寸前である。

 

しかし、思考を停止してもいられない。

何を隠そう2科目の期末試験が明日の私を待ち受けているのだ。

にも関わらず謎の余裕と共にベッドの上で駄文を弄している私はもはや救いようのない人間なのかもしれない。私の堕落具合といえば、マザーテレサでも唾を吐きかけるレベルであろう。

当然、2科目ともまだ何も勉強をしていない。このままではまずい。その様な危機感すらも最早覚えぬようになった。成長であろうか。否、退化である。

そんな私も、限りなく0に近い明日への希望を胸に、ここ16時間を共にしたベッドに別れを告げるのであった。

 

ここまで読んで頂いた読者の皆様も、きっと大切な時間を浪費してしまったことだろう。

 

しかし時間は残されている。

 

悲観的になるのはまだ早いだろう。

 

まだあわわあわ、あわてるようなじかあわわわわ。

 

やばい。

夏の始まりについて。

7月になった。

いよいよ夏の始まりである。

 

さて、夏といえば、読者の皆様が思い浮かべるものは何だろうか。

 

やはり花火大会であろうか。

或いは夏祭りだろうか。

もしくは海という選択肢もあろう。

 

但し、恋人が存在していなければこれらのイベントの魅力は75%OFFになってしまう。

夏のバーゲン開催中ってか。くたばれ。

 

少なくとも私は、以上の様なイベントの充実する季節として、

はたまた開放的な気分の最中、何をするにも楽しいと感じることの出来る季節として、夏を捉えている。

 

だが現実はどうだ。

 

寝汗に塗れた起床 

 

身体中がヌルヌルしている。俺は河童か。

 

灼熱の我が部屋

 

汗が止まらない。この部屋に存在しているだけでダイエット効果がありそうな気がしてくる。当然、気がするだけである。実際にはそんなものありもしない。地獄か。

 

夏特有の気だるさ

 

この気だるさの中で私に何か行動の選択肢があるとすれば、精々《天井を眺める》か《うめき声を上げる》程度だろう。死にかけの老婆か。

 

ジィジィと煩い蝉の鳴き声

 

絶滅しろ。

 

 

そもそも、1週間で死ぬにも関わらず7月初頭から鳴き声を上げ始めるのは、さすがに意識が高すぎはしないだろうか。計画性のなさが露呈している様に思われる。私の知ったことではないが。

 

この現状と照らし合わせても尚、夏は活気に満ちた素晴らしい季節だと思うことが出来るだろうか。否。

もしかすると、夏とは一年の季節の中で最も人間の活力を奪う最悪の季節なのではないだろうか。早く冬になって頂きたいとすら思えてくる。

私のことである。季節が冬へと移れば、今度は寒さに文句を言い夏を待ち侘びることであろう。きっと同じ事を80回程繰り返す内に私は土へと還るだろう。

 

その前に何か、何かを成し遂げてみたいものである。

そのためにも、先ずはベッドからこの身を起こそうと思う。

 

15:42 私は、まだ見ぬ未来への希望を胸にベッドから去ったのである。

 

平凡な火曜日について。

 

平凡とは果たして何なのだろうか。

 

ふと疑問に感じたのは、きっと同じ電車内の女子高生達が、彼女らの平凡な日常を嘆いている声を聞いてしまったからであろう。

単位を落としたこととは全く関係ない。

30代半ばのおっさんの様なことを考える女子高生達。恐ろしい世の中である。

 

しかし、なかなか興味深い話である。

彼女らがベイクドチーズケーキフラペチーノを手にしておらず、かつ声量がもう少し控えめであれば、きっと好感度は非常に高く大気圏を突破し思わず「地球は青かった」等と小学生でも吐けるような台詞を口にしていただろう。

 

とは言うものの、本当に私が宇宙旅行から帰還した暁には「ヤバい」以外の語彙を発することができない様にも思われる。

現に私はUSJのフライングダイナソーなるものに初めて乗った際に「ヤバい」という単語のみを10分間連発し続けた男である。私がアナウンサーならば即刻退職届を出さねばならなかっただろう。何の話だ。

 

私も少し日常について考えてみる。日々惰眠を貪り生きている私にとっては日常など存在していないも同様であった。悲しい。健康で文化的な最低限度の生活を送ることができているのであろうか。カバの方が私よりも活動している気すらしてくる。

 

平凡な日常について自分のことを考えても仕方がないと考えた私は、勝手に耳に飛び込んでくる女子高生達の日常に耳を傾けた。

盗み聞きなどでは無い。彼女らの声が勝手に耳に入ってくるのだ。仕方がない。確かにイヤホンは外したが、それは全く関係の無いことだ。

私はただ単に電車の空気を耳の穴の奥まで感じたかったのだ。

 

1人の女子高生が言う。

「今月でもう別れるの2回目やねんけど」

 

私の思考はそこで停止してしまった。

議題は『平凡な日常について』ではなかっただろうか。もしや日常的に別れているのだろうか。恋人との別れは、彼女にとっては平凡な出来事としてカウントされるのだろうか。

いや、そんなはずはない。私は一瞬の間に考えを巡らせることで一つの結論へと辿り着くことができた。

 

なるほど、細胞分裂の話か。

 

彼女は続けた。

「今回の彼氏マジで重すぎやわ、やってられへん」

白鵬とでも付き合っていたのだろうか。

しかし驚いた。手元のベイクドチーズケーキフラペチーノを頭にぶちまけてやろうか。なんというペースだ。楽天カードマンもびっくりである。この勢いならばそのうち元カレで軍隊でも編成できるようになるのではないかと思う。

 

冷静に考えてみると、電車内で大声でスタバの商品を手に騒いでいる女子高生から、平凡という概念に関する興味深い話が聞けのではないかと期待した私が間違えていたようにも思われる。

 

こうして私の平凡な火曜日は終わっていくのであった。

 

休日の理想と現実について。

理想の休日というと読者の皆様はどのようなものを想像されるだろうか。

朝起きて珈琲を煎れる。珈琲を啜りながら朝の優雅な時間を過ごす。BGMはクラシック音楽だ。
と、いったような朝を思い浮かべる人は多いのではないだろうか。ここでは「コーヒー」ではなく「珈琲」と表記することが重要である。

しかし、私はコーヒーが飲めない。その時点で私は理想の休日など過ごせないのだ。あぁ嘆かわしい。
が、そもそも私は朝起きることが出来ないので、コーヒーが飲めるとかその次元に至っていないような気もしてくる。

本日の朝もまた思いっきり寝坊をした。
寝坊にももう慣れてしまった私は時計の時刻を見ようと驚くようなことはしない。
ただ冷静に、時計の針を疑うのである。本当にこの時計は正しいのだろうか?と。
もちろん正しい。

既に私の中では一限は出席しないものとして定義されている。さようなら単位。こんにちは再履修。

とはいえ、本日の授業は簿記。個人的に出席したかった授業のため、私は遅刻を確定させながらも大学へと向かったのだ。なんという意識の高さだろうか。チェホンマンも思わず見上げてしまうレベルである。

電車に乗り込み、電車の乗り換えを検索する私。ここまではいつもの私である。
『あぁ、25分くらいの遅刻かあ〜』そんなことを考えていた私。突如速度を落とす電車。私は思わず空を見つめた。嘘である。ツムツムをプレイしていた。
車掌曰くただの信号待ちらしい。3分程度の遅延を覚悟した。覚悟する程の物ではない。ダルい。帰ったろか。

3分が経過しただろうか。電車は中々進もうとしない。大幅な遅刻を覚悟した。私は松崎しげるでも顔面蒼白になるレベルには焦っていた。もちろん嘘である。ありえないほど冷静にtwitterをしていた。

ようやく電車が発車した。四条畷駅に停車した。必死でこの電車に乗ろうとする人々。ここはインドじゃないのだ。すぐに次の電車が来るだろうに、何をそう急ぐことがあろうか。

四条畷駅を発車した。加速を始める電車。遅延は10分程度だろうか。そのようなことを考えていたまさにその瞬間電車が急停止した。自動列車停止装置が作動したらしい。漢字で表記すると少し格好良い感じがする。右側から慣性の法則に負けたおっさんが突っ込んでくる。ただの物理法則にも負けてしまう。人間とはなんと弱い存在なのだろう。

その後も着々と遅延時間を伸ばしていく電車。どれだけ記録を伸ばすつもりだ。イチローかお前。
目の前で大人のビデオを見始めるおじさん。眉毛を書き始めるお姉さん。なんと愉快な車内であろうか。私が白鵬ならば寄り切りを決めていただろう。

こうして私は1時間遅れで授業に出席した。「なんでお前来たん?」口には出さないがきっと同じ教室の大半の人間はそう思っていたことだろう。私もそう思う。何故来てしまったのだろう。

その後、授業では睡魔に負け、大学の近所では迷い、目の前で電車を逃し、課題は全く捗らない。
最高の1日であった。
もはや詳しく語る気にもならない。