夏の終わりについて。
夜の空気は少し肌寒くなり、蝉の鳴き声もいつしか聞こえなくなった。
今年の夏は、知らぬ間に終わりを告げていたようだ。
夏はあまりにも身勝手だ。頼んでもないのにやって来て、猛烈な暑さで我々を苦しめる。
そのくせ終わってみたら一瞬で、得体の知れぬ喪失感だけを残し、姿を消してしまう。
たかが季節にすら翻弄されてしまう私は、なんて容易い男なのだろうか。
何はともあれ、焼けつく様な暑さは何処かへと行ってしまい、打って変わってとても過ごしやすい季節になった。
しかし、この快適な気候も長くは続かず、今度は厳しい寒さに苦しめられることになるのだろう。
秋はどう考えても短すぎる。
そもそも、四季の中で冬と夏の占める割合があまりにも大き過ぎやしないか?
何が春夏秋冬だ。春夏夏夏秋冬冬冬冬 くらいが適切ではないか。ペース配分が小学生の持久走並に下手である。
かくいう私も、月の収入の半分以上を最初の10日で消費してしまうので、あまり馬鹿にできる身分ではない。
もしも私が四季を司ろうものなら、春夏秋冬冬冬冬冬冬冬冬冬 みたいな1年になってしまうだろう。すると、水位は下がりマンモスは湧き踊る。俗に言う氷河期である。冷静になろう。一体私は何の話をしているのだ。
私の悪い癖である。すぐに話が逸れてしまう。まるで台風の進路のようである。小学生の頃の純真な私の心はどれだけ台風に弄ばれた事だろうか。って違う。これも全く関係の無い話だ。
さて、話を元に戻したい。
春夏秋冬。かれこれ20回ほど経験したはずのこのサイクルに、未だ慣れる兆しはない。
思えば、夏は毎日外で蝉を乱獲し、冬は祖父の家で毎日飽きずに雪だるまを制作していた幼少期の自分の方が季節に適応出来ていたのかもしれない。今となっては、そのようなアクティブな活動はどうぶつの森でしかできっこない。老いを感じる瞬間である。
「季節に合わせて日本大陸が南北に移動したらいいのに」と、私はかつて友人に語ったことがある。
鼻で笑われた。せめて口で笑ってくれないかな。
渾身の名案を一蹴された私は、悲しみのあまり大量の涙を流しアフリカの砂漠化問題を解決してしまった。
嘘だ。少し話を盛ってしまった。
それはさておき、私は先日最寄り駅で中学の頃の同級生を見かけた。
とは言っても、もう5年程会っておらず、他人の空似である可能性も否めなかったため、声をかけることは出来なかった。これだから私には友達が少ないのだ。自覚はしている。
声をかけられなかったとはいえ、やはり彼の近況は気になるもので、元気にしているのだろうか。などと思いながらTwitterで彼のアカウントを見つけ出した。ブロックされていた。そんな夏の終わり。秋の始まり。
知らぬ間に移ろいゆくのは、季節だけではないのかもしれない。